君の名前で僕を呼んでにおける【アレ】の訳について

君の名前で僕を呼んで、の翻訳について考える

 

最近は、留学準備のために理論の本を読んでいるのですが、内容が難解で消化不良になりそうだったので、無理矢理『君の名前で僕を呼んで』に理論を当てはめてみたよ、という話です。

 

 読んでいた本はこちらです。

翻訳理論の探求

翻訳理論の探求

 

 

こちらの本を教授からオススメされたので読んでいたところ興味深い理論が。

 

等価・・・翻訳理論の初期に出てきた概念。文字通り、原文と訳文は同じ概念を保つ、とう意味。

それは見た目(音や文字数)か、機能的(目標文化に訳文の概念がない時、同じようなものに置き換える。例・アメリカだと13日の金曜日は不吉だとされるがスペインだと13日の火曜日になる。この場合、原文のまま13日の金曜にするかスペインの文化に合わせ、火曜日にするか)に等価かの二つに分かれる。

 

もふもふがCall me by your nameで、違和感を感じたのは、あの言葉「コック」です。

なぜ、訳者さんは、わざわざカタカナで「コック」としたのか。

以下、論文口調(エセ)で進めさせていただきます。

 

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)

 

これは単語の音やリズムという形式では等価であるが、その言葉がもともと持つ意味(男性器の直接的な表現)においては、目標言語上では等価ではない。

 

コック、と表現しただけでは日本人読者の多くは意味がわからない筈だ。

日本という目標文化において、コックはちん◯等に訳出されると推測する。

もちろん、煌びやかな美少年を求めがちな日本人読者には、エリオ少年が「ち○こ」とか言うのは耐えられないだろうし、出版社からストップがかかりそうだ。

ここで、重要なのは、彼がはじめてこの言葉を口にしたのは、アプリコットの語源をオリバーが説明するシーンである。

この時点でエリオはオリバーに惹かれている。

 そして、アプリコットという音を聞いた時、コックを連想させるのだ。

だから、ただ単純にエリオに直接的な世紀の表現を口にさせるのは憚られると判断した出版社や翻訳者だけの問題ではないのかもしれない。

 

このコックという単語をカタカナで訳出することは、この文章中において本当に等価であるのだろうか。

 

翻訳理論の探求

翻訳理論の探求

 

 

ちなみに今では等価は遅れ気味の理論でスコポス理論(翻訳の目的を第一とする理論)にとって代わられたそうです。

 

ではあなたが訳者であった場合、このコックという言葉をどう翻訳しますか?

もふもふは、やはりカタカナでコックとし、この本のように訳注をつけると思います。

ただ、それでエリオのダイレクトな性的欲求、つまりどれだけオリバーの体を欲しているかということが日本人読者に伝わるかというと、それは難しいところですね。

 

個人的には、エリオの話し方が子供っぽく訳されていることがあるので、それがどうしてもエリオの年齢にはにそぐわない賢さとちぐはぐなんですよね。こんなにも文学、音楽に精通している少年がこんな話し方をするだろうか、と思ってしまう....

 

マニアックな話題ですね笑

卒論でこれについて書く場合には、この記事は削除するかもしれないのでよろしくお願いします。

 

こちら、日本で最初に訳されたゲイ文学みたいです。

潮騒の少年 (新潮文庫)

潮騒の少年 (新潮文庫)

 

 

このヒットにより、一時期次々と日本ではゲイ文学が訳されるようになったそうですが、より安価でエンターテイメント色の強い色の強いBLはこういう文学から流れを引いているんですかね。

 

 

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