さて、腐女子について語ろうか。元腐女子からの考察

突然ですが、もふもふは、元・腐女子です。

あ、これだけで拒否反応出る人は回れ右でお願いします。

また、あくまでもふもふの考えであるだけで、腐女子を批判とかするわけではないので、読むのは自己責任でお願いします。

 

(超読みたい!)

 

なぜ、元・ということを強調するかというと、自分が腐女子であるときには、冷静に客観的に自分やそれをとりまく環境を分析できないのと、自分が腐女子文化から、卒業してしまったのだな、と思った出来事があったからです。それについては最後の方に書きます。

 

さて。

 

自分が、腐女子になったのは中学時代でした。

絵をかくのが好きで、たまたま立ち寄った文房具屋さんで同人誌を売っている雑誌を見つけ、本能的に私がもとめているのはこれだ!となりました。

 

ここで、不思議なのですが、なぜ、人によっては「本能的に無理」という人を、もふもふみたいに「これが私の求めているものだ!」と本能的になる人がいるのかよく分からないですね~

 

私が惚れた理由として今考えたのは、他の腐女子の作った創作を通して、女性にとっては「不可侵な領域(=男同士の絆)」に立ち入ることが、疑似的に体験できるからではないかと思います。

 

女性にとって、男というのはある意味で理解できない領域で(それは逆もしかり)、もふもふはそういうわけ分からん領域に惹かれたのかなと思います。

 

高校時代には、その傾向はさらに進み、コミケに行って本を出したりもしていました(すごくね、一冊も売れなかったよ(笑))。ちょうど腐女子という言葉が公になってきたころで、腐女子というアイデンティティを前面に出す子達も出てきたなーと記憶に残っています。個人的にはそういう腐女子とは距離を置いていましたが。

高校生の時にもふもふの腐女子レベルマックスになった、これには明確な理由があります。

 

当時人生初の彼氏に振られたからです。

 

辛くて辛くて死にそうで、男女関係というものに夢を見いだせなかったもふもふは、決して理想を穢されないBLという領域にずぶずぶと入っていきました。

女と男の関係なんて、綺麗ごとだけではないのだという現実に立ち向かうことが出来なかったもふもふは、男同士で成り立つBLの世界に逃げました。

 

BLって、受け攻めで成り立ちますけど、それ自体が疑似的な男女関係を表していると思います。

受けの子って、妙に女らしかったりして、それこそ、ガチムチ系よりも線の細い受けモノが圧倒的に腐女子に支持を得るのは、先程も言った通り、その受けを通して「疑似恋愛体験=自分自身にそのキャラを投影している」のではないでしょうか。

 

現実の男女関係に興味がありつつ、それを受け入れる勇気と踏み出す勇気がなかったもふもふにとっては、BLの世界で疑似恋愛をしていたようなものです。

 

だからこそ、自分が大学生になって、腐女子文化とは全く違う子たちを交流するようになったときに自然とBLに触れる機会も減り、薄れていきました。

しかし、とある授業で『モーリス』について知り、「文学として認められているBLなんかな?」と面白半分で映画を見たら号泣でした。

 

モーリス HDニューマスター版 [DVD]

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 最初は、主演のジェームズ・ウィルビーの美しさ、古き良きイングランドの上中流階級の世界観に惚れたんかなと思って原作を読んでみたけど、原作は「映像」という縛りもなく、逆にその描写、訳の美しさに惚れ惚れとしました。

 

Penguin Classics Maurice

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それで卒論はこれにしたんだけど。

書き上げて、お世話になった教授にあいさつしたら「もふもふさんは俗にいう腐女子なのかしら」と言われたけど、「元、だと認識しております」と自然に言ったのは懐かしい思い出です。

 

それから、社会人になって、もふぃあんせと出会ってからは、ほぼそういうものには興味が出なくなりました。

もふぃあんせの前の彼氏に振られた時は、一瞬BLにはまったのですがやはり熱は続かず。

 

で、これが決定的なのですが、最近「鋼の錬金術師」を読んだときに、初めて、NL(ノーマルカップリング)に惹かれたのです。

ホモセクシュアル論とか読むとわかると思いますが、女性ってのは、小説等の創作では男同士の絆を切り裂くシンボルなんですよ。『こころ』とかもそうかなと思うのですが。こちらおもしろいのでぜひ読んでみてください)

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望

 

これって、男同士のカップリングしか受け入れられなかった自分にとっては、ノーマルカップリングはある意味敵だったので、それを自然に受け入れている自分に対して、本当に驚いたのですよ。

作品の中で描かれている女性キャラクターに対して、すんなりと「女性」の役を受け入れることができるようになったと。

ちなみに大佐とホークアイのカップリングね。

この瞬間、うまく言えないけど、「あぁ、もうワシは腐女子じゃなくなったのだなぁ」とも思いました。

 

これは、自分の内面での成長ともリンクしているのかもしれないですね。

自分が現実世界で良い男性に出会って、作品中の女性にまっすぐと自分自身を投影できるようになった(『受けの男性』というフィルターを通す必要が無くなった)、とでも言いましょうか。

 

自分が今まで逃げていたBLという世界と決別しちゃったのだなと思うと寂しいです。まぁ、なんだかんだ言って、なんかあったらまたはまるのかもしれないけどね。

 

ちなみに、『モーリス』とか『ドリアングレイの肖像』のように「文学」にカテゴライズされるものはBLというよりも、「人間愛」に焦点を当ててもふもふは研究し続けたいと思います。

 

モーリス (扶桑社エンターテイメント)

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ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

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ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)

ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)

 

 

商業的に作られたエロ全開のBLと、作者が時代や文化背景も絡んでいて苦しんで苦しんで、でも吐き出しざるを得ないようなほとばしるようなパッションで書き上げたor作り上げたものってのは、見る人読む人に何かしら印象を与えるよね。

 

もしかしたら、本当はもふもふは男や女の垣根を超えた、「人間愛」について研究したいのかもしれないね★

 

とりあえず、こんな年末によんでくださってありがとうございます。

支離滅裂だと思いますけど、自己満足のブログなので。

冒頭で言っていますが、腐女子を批判したりとかそんなつもりはないですし、単純に内省も兼ねて書いているので、怒ったりしないでくださいね★